遡ること時は3月。
祖母が「なんだかご飯食べたくない。」という電話をかけてきたことが発端でした。
気分の落ち込みの問題かと思い、かかりつけの病院へ。
というか、祖母の弟さんが主治医なんだけどね。
(ちなみに祖母は9人兄妹でその弟さんは10コも下だ。)
まぁ、心配なのでMRIを撮りに行ったら脳腫瘍ができてて、浮腫がかなり広がっていた。
高齢だったこともあり、摘出手術しないと決めてからは病院探し等大変でした。
積極的な治療を望まない患者にとっては日本の医療は厳しいところだね。
最初は大きな病院に入っていたんだけど、在宅療養という手段もあることを知っていろいろ奔走していました。
大きな病院の医療区分が低い人の病棟の様というのは、結構壮絶なものがありました。祖母の最期をここで看取るなんて私にはできなかった。
実際、祖父は病院で最期を迎えました。たったひとりで。
私はまだ二十歳で、何もできなくて、悔しい思いをした。
学校の帰りにお見舞いに行ってあげることくらいしかできなくて。
いい病院も見つかり、在宅療養をはじめたのが8月。
(在宅療養するために、診断書を書いてもらうのに2ヶ月待った。)
一時期はご飯も食べられなかったのですが、病院の方の協力、介護のケアマネさんの協力を経て編み物をしたり、自力でトイレに行ったりするまで回復しました。
まぁ、その回復は、グリセリンを投与するときに現れる一時的な症状だということは聞いていました。でもその時期を持てたことがあってよかった。
半年は殆ど眠れなかったし(祖母も私も)、大人の食事の介助やオムツを換えたのも初めてだったし、死の予感を敏感に察する祖母の気分の変調に付き合うのも容易くはなかった。
母ら姉妹と祖母には小さい頃からの確執があったことも知っていたので、在宅にすることの母への説得、実生活にも骨が折れた。
祖母は最期まで気位が高く、本当に自由奔放な女だった。
そして、聡明で孤独な人だった。
最期は意識混濁気味ではあったが、点滴もストップして、家族が普通に生活する中で静かに目を閉じて呼吸が止まった。
日差しが秋に替わった午前中、静かな、静かな最期だった。
その後1、2ヶ月は手続きに追われた、葬儀から墓、金、親戚、制度。
父の時もだったけど、人が死ぬとびっくりするほど手続きがいる。
四十九日までは悲しんでいる暇はない。
時間を惜しまなくてよかった、気持ちを惜しまなくてよかった、使えるもの、使える人を全て使ってよかった。
でも、みんなに在宅で誰かを診ることはお薦めしません。
失うものも大きいです。
結局ね、自己満足だと思う、私はね。
4月からは大学に英語を聴講に行ってたんだけど、殆ど参加できなかった。
たまにオレサマを訪ねると、のど飴を握らせてくれることがすごく嬉しかった。
この生活が終わったら、あなたたちにいっぱい会おうと思うと頑張れた。
みんな、ありがとうね。
私はきっと幸せな環境にいるんだなぁ。
祖母は今頃、蓮の花の上で暢気にニットを編んでいるんだろうなぁ。。。